北川鹿蔵と野副重次

  • 2013.06.13 Thursday
  • 23:30
『日本と東欧諸国の文化交流に関する基礎的研究』(東欧史研究会・日本東欧関係研究会編集・刊行、1982年4月30日)所収の家田修「日本におけるツラニズム」(同書207〜209)によれば、北川鹿蔵について、「北川は関東軍下のハルピン事務所調査課で大正末期に満州での調査活動に従事していた人物である」として次のように紹介し、さらに北川の構想を受け継いだのが野副重次のツラン民族圏経済ブロック化構想であるとしている。(引用に際して一部改行を加えた)

 さて、時期が少しあともどりするが、1929年には、「ツラン民族圏」を遠望しながら、「ツングース民族圏」と日本経済ブロックを結びつけた北川鹿蔵の『パン・ツングーシズムと同胞の活路』(大通民論社)が著わされている。
 北川は関東軍下のハルピン事務所調査課で大正末期に満州での調査活動に従事していた人物である(「東鉄通商部チチハル出張所開設問題」1924年11月26日、「内地外商資金の北満流入による一現象」同年10月25日、「北満における一般労働運動」1925年9月1日といった北川の報告書がある)。
 この北川の発想がそのまま満州国興安嶺の官吏、野副重次にうけつがれ、今度はツラン民族圏の日本経済ブロック化となり『氾ツラニズムと経済ブロック』(天山閣、1933年)として著わされる。
 野副はこの著作の中で、日本人が広大かつ資源豊かな「ツラン民族圏」の地に民族移動を行ない、一大国家を建設することを説いている。この議論の根拠としてシベリアに関するかなり詳しいデータが用いられており、野副は満鉄調査部や関東軍の諜報機関からのデータを得ていたと考えられる(ポグラニチナヤで諜報活動を行なっていた飯村譲陸軍少佐や関東軍司令部の軍政部顧問下永憲次陸軍少佐と野副は交流をもっていた)。
 この他に、1931年には野副は軍隊内での講演も行なっており、林銑十郎には支援をうけていると自ら書いている。また善隣協会理事の斉藤貢による同書の序には、野副の氾ツラニズム構想が参謀本部によって採用されたと記してある。
 ところで、野副がツラン民族圏経済ブロック化構想を説いてまわり、今岡が帰国し、ツラニズム紹介を始める1931年には満洲事変が勃発し、翌1932年9月には満州国が成立する。この間の日本の満蒙経営を主たるイデオロギーは満蒙民族の擁護及び、五族(日、鮮、満、蒙、漢)協和=東亜思想であって、ツラニズムは全く登場してこない。満州国成立後も東亜思想が支配的であり、後には大東亜となり、日本の進出の矛先は東南アジアに向いてゆく。(同書208頁)

 日本においてツラン思想に関心をもつ研究者はほとんど皆無という状況の中で、家田修氏が東京大学経済学部大学院時代に書かれたと思われる論文「日本におけるツラニズム」は大へん貴重である。家田修氏は1953年生まれ、東大経済学部大学院卒、同大学院にて博士号取得後1990年より北海道大学スラブ研究センター助教授、1995年より同センター教授として東欧経済史、ハンガリー史、農村社会論、社会思想を専門としている(北海道大学スラブ研究センターのウェブサイトの中の家田修教授紹介 http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/tenken/2001/ieda.html による)。ただ、同サイトで氏の経歴を見る限りでは、ツラニズムに関する論考は上記のただ一篇だけであるようだ。
コメント
コメントする








    
この記事のトラックバックURL
トラックバック

calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< December 2017 >>

訪問者数

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM